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カテゴリ:仁科濫觴記( 1 )

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仁科濫觴記(現代語訳) 【作成中】


仁科濫觴記とは(Wikipedia)


【仁品王の降臨】
 ここに仁科の開祖を尋ねると、第10代・崇神天皇の末の太子で、第11代・垂仁天皇の弟にあたる仁品王(にほんおう)という方がおられた。

 仁品王は、側近に保高見熱躬(ほたかみのあつみ)、武内山雄(たけのうちのさんゆう)を従え、他に多くの家臣を引連れてこの地に降臨された。

【治水】
 仁品王がこの土地の様子をご覧になったところ、いたるところに山川が数多く流れ、雲霧が深く立ち込めて村落もはっきりせず、大雨が降り続く時などは、水の勢いは倍増して辺りは湖のようになり、民衆はひどく苦しめられていた。

 親王(家臣をはじめとして皆は「仁品親王」とお呼びしていた)はその民の苦しみをお嘆きになり、家臣と話し合われて、九頭子(くずこ)という者を河伯司(治水を司る役人)に任命し、山を削り岩を取り除いて川の水路を拡げるよう命じられた。

 九頭子は民衆の中から剛健な男を集めた。
 集まった多くの水慣れした男たちの中でも、特に水中作業に秀でた日光(ひかる)という者がいた。
 九頭子はこの日光を白水郎(あまこ・治水作業団)の頭領に据え、川底の岩を取り除き、砂石をさらい流して水路の拡大を成し遂げさせたのだった。

 九頭子と日光が山征(さんせい=山を切り崩し水路を拡げること)の計画を話し合い、剛健な男を集めてその計画に従って彼らを導いたこの場所を「征矩規峡(せいのりそわ)」という。
 また、山征を成し遂げたこの場所は「山征場(さんせいば)」、または「山征地(さんせいじ=現・山清路)と名付けられた。

 そもそも「山征」とは、「山を伐る(きる)」がゆえに、「山を征伐する」という意味で「山征」と名付けられたという。
 春、3月下旬に作業を始め、秋の終わりまで川底の石を穿ち取り、土砂をさらい流し、川幅の狭い箇所は山野を切り崩して流し、水路を拡げた。この作業において白水郎の頭領、日光が武勇に優れていた。
 そのようにすること数年、その間にも大きな水害が何度かあり、農作物が被災することが少なくなかった。
 そこで、仁品王は遠音太川(とおだがわ=現・高瀬川)の両岸の高台に見張り小屋を建て、上総道臣(かずさみちおみ)と丹生子(にうのみ)という二人の家臣に川を監視させて民を災害からお救いになられた。

 この上総道臣の小舎があった川の西側を「神戸(ごうど)」といい、丹生子の小舎があった川の東側を「難期(なんご)」といった。

 この難期に山征場から通じる沢道があり、日光の母がこの道を行き来して山征場での作業の進捗状況を仁品王に報告したことから、仁品王はこの沢に「婦人沢(おもさわ≒現・思沢か)」とお名付けになった。
 また、難期のことを「丹生子の村(現・丹生子地区)」とも言うようになった。

 山征場での治水も年月を重ねて作業を終え、川幅は広がり水は滞りなく流れるようになり、原野も田畑となって、集落が増えて民は豊かになった。
 そして、民からの租税が多く納められるようになったことを喜び祝した。

【城館の造営】
 仁品王は館をお建てになろうとして土地の様子を見立てたところ、四神相応の地理にかなっているとして、城館を築かせになり、入城された。この城館は「御所」と呼ばれた。

 家臣は御所の敷地の外に宿舎を建てて住み、御所へと勤仕した。

 また、この御所の門外に一棟の庁舎を建て「止歩可見庁(とほかみちょう)」と名付け、ここで民衆や家臣にかかわる事柄を論じられた。

(治水作業の結果、民が豊かになり、税収が増したことによって)
 仁品王は、遠方を眺望することができる止歩可見庁の南園に三重の楼閣をお建てになり、「光明亭」と名付けられた。
 仁品王は光明亭にたびたび上られては、民の暮らしぶりをそこからご覧になったという。
 
 光明亭の東の園には「諍論園」という庁舎を建て、地区の役人の集会所とした。
 諍論園の東の野原は「居止芝(いとしば)」といい、民の集会所であった。

 止歩可見庁の南方、光明亭の西方にあたる場所には「若宮の舘」を建てた。

 九頭子は川辺に居舎を建て、水路に関わる仕事を担当した。

 日光白水郎は光明亭の別当職に任ぜられ、日光の母は居止芝に居舎を賜り、若宮の舘へと通い勤めた。

 御所の敷地の外には農家が軒を連ねるようになり、この頃から、御所を「仁品王城(にほんおうじょう)」と呼び、城とその周囲を総じて「王町(おうまち)」というようになった。


【仁科神明宮の祭祀】
 親王がお出かけになった折、杉の樹が生い茂った光々しい場所があったことから、ここをつぶさにご覧になって、「この地は天照大神のお告げに見合う場所である」として廟を造らせ、天照皇大神宮を祀られた。
 仁品王は、ここにたびたび参詣され礼拝をされたという。

 「有明山」という名は、仁品王が天照皇大神宮の御廟をお建てになり「宮本神明宮」として敬い崇め、毎月十六日に神明宮へ参詣されたことに始まっている。
 八月の十五夜に仁品王は神明宮へ夜を徹してご参詣され、明け方に膳物を神に献ぜられて礼拝をされた。

 礼拝される頃、西の山の上には満月が残り、東の空には赤みがさす雲がたなびき、夜がほのぼのと明け渡っていく様子を仁品王はご覧になり、いまだ月がとどまっているその嶺を「有明山(ありあけざん=現・同名)」とお名付けになったという。

 礼拝が終わり、仁品王がお帰りになる頃には、太陽が東の山の峰に姿を現したので、その山を「戸開山」とお名付けになった。

【妃「妹耶姫」と「若宮一王子」の誕生】
 仁品王が宮本神明宮から御所へとお帰りになる道に、日光の母が、日光の妹と連れ立って仁品王を敬いお迎えしたので、仁品王はこの地を「妹峡(いもさわ)」とお名付けになられた。
 それから日光の妹は、御所へと召されて「妹姫(いもひめ)」の名を賜り宮仕えをしていたが、仁品王のご寵愛を受け、間もなく王子がお生まれになった。
 この王子が、「若宮一王子(わかみやいちおうじ)」と称されたお方である。

【牧場の発祥】
 親王がお出かけになり、農民の仕事ぶりをご覧になった時、農民の苦悩が甚だしいことを憐んで、馬を使って農民の仕事を助けようとお考えになった。
 そこで親王は、里の長に命じて雄と雌の馬を数頭求めさせ、広野に放牧させた。
 これが牧場の発祥である。
 この時、馬を追い出し放牧した場所を「追出牧場」とお名付けになった。
 親王が「この馬はいずれの国から求め来たものか」とお尋ねになったところ、里の長は「海川を隔てた遠い国から求め来ました」と申し上げた。
 そこで、親王はこの里の長に「海川求馬(うみかわもとめ)」という名をお授けになって、牧場の長に任命した。

【地名「等々力」「矢原」の発祥】
 12代景行天皇の御世になると東国で反乱が起こり、天皇は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を東国の征伐のためお遣わしになった。
 その時、仁品王は「この国にも東夷(とうい・あずまえびす)の軍勢が襲ってくるかもしれない」として、保高見熱躬(ほたかみのあつみ)に命じて勇敢な男達を集めさせ、弓矢を作らせ、熱躬を指揮官に任じて、陣営を成すための準備をさせた。
 仁品王は熱躬をはじめとして男達を引き連れて宮本神明宮にご参詣され、東夷征伐を祈念された。
 仁品王は弓矢を手にして「この征矢の止まった場所に陣営を張るがよい」と熱躬に申され、弓を引き絞って矢を放たれた。
 その征矢は雷のごとく鳴り響いて飛んでいった。
 熱躬は男達を引き連れて、矢が飛んでいった方へ急ぎ向かったところ、広い野原の中に放った征矢が止まっていた。
 そこで、熱躬はこの場所に陣営を張り、弓矢を飾って、丈夫な男達を集めて「良等(郎等)等しく力を合わせ」東夷の襲来に備えた。
 この時から、この場所を「矢原(現・安曇野市穂高矢原)」というようになった。

 またこの時、保高等々力(ほたかとどりき=現・安曇野市穂高等々力)の地名が起こった。
 等々力とは「郎等、等しく力を合わす」すなわち「良等々力合」という語の、上下を省略して「等々力」としたということである。

【流鏑馬の発祥】
 仁品王は征矢の飛んでいった先の西側を「宝祚野(ほその=現・細野)」と名付けられ、今上天皇の皇位を祝された。また東側は征路野(せじの)と名付けて、武内山雄(たけのうちのさんゆう)、土師連雄(はじのむらじお)、夜刃雄(やしゃお)に命じて12名の鉾を「#」のように井形に立てさせ、東国征伐の祈祷をなされた。

 「東夷は日本武尊がことごとく服従させた」という報せがあり、矢原の陣営を引き払うことになった。
 その際、仁品王は王子である若宮、妃の妹耶姫を始めとして臣下の者を引き連れて宮本神明宮に参詣され、神前に陣営の引き払いをご報告された。
  指揮官の熱躬(あつみ)をはじめとして、男達は馬上で戦装束に身を包み、矢を背負い、弓を握って拝殿の前まで来て下馬し、昇殿して勝利を謹んで祝った。
 また、そこで騎馬で弓術と射礼(じゃらい=礼式としての射法)を行い、神の思し召しを慰めた。
 その翌日には、止歩可見庁から若宮の館、光明亭の庭において騎射(きしゃ=馬上から矢を射ること)の礼式を執り行い、見物に集まった大勢の民衆らによって賑わった。
 これが野分射馬(やぶさめ=流鏑馬)の始まりである。
 
(加筆中)

【参考文献】
by TamaWakaba | 2008-01-31 00:00 | 仁科濫觴記 | Trackback | Comments(0)
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